大雄山沿線名所巡り

その3 飯田岡・相模沼田・岩原
 
     
 
 9月9日、残暑厳しい日「大雄山線沿線名所巡り第3回」として飯田岡〜沼田〜岩原を巡った。
 先ずは飯田岡駅より2キロ半久野の曹洞宗総世寺へ。
 本堂こそ近代建築となっているが、山門より境内に至る参道は古刹の面影を宿していた。
 総門脇に建つカヤの木は「かながわ名木選」に選ばれている。
 応永15年(1408)・永禄元年(1558)・天正18年(1560)と三つの銘文が刻まれた珍しい県指定文化財に指定されているこの鐘は本堂内に安置されていたが、特に天正の小田原役では、後の関白秀次が陣鐘として用い、その由緒も刻まれているというが、この日住職一家は留守で施錠されており窓越しに見るのみに終わる。
 この寺は大森氏頼の開基によるもので境内脇に苔むした墓碑が累代住職の墓に囲まれて佇んでいた。
 
      
 
総世寺参道                           総世寺本堂

 
                       
 
鐘の銘(応永十五年と読める)                     大森氏の墓碑

 
   来た道を下り沼田の浄土宗知恩院派壽傳山西念寺に降り立つ。
 永和元年(1375)創建のこの古刹はもともと飯田岡にあったが、文安3年(1446)の酒匂川氾濫により堂宇が流失、この地に移転したと伝えられている。
 山門越しに見る本堂は改修されているとはいえ雄大で、この宗旨らしく扉は開いており上がって御仏を拝す。  本堂脇の墓には石柵に囲まれた天野康景の墓所がある。
 慶長12年(1607)家康の三奉行の一人であった駿河興国寺藩主、天野康景の足軽が木材を盗もうとした天領の農民を家臣が殺戮する事件が起こり、駿河代官井出正次との間に争いが生じ、家康の側近本多正信は康景に対し犯人引き渡しを迫ったがこれを拒否、改易された。
 小田原城主大久保忠隣が保護し同寺で生涯をおくったという。享年77歳。
 後に発生する大久保長安をめぐる大久保―本多の確執の前触れともいえる事件でもあった。
 西念寺を出て裏側にはかって西念寺に含まれていたという八乙女神社がある。
 
      
西念寺山門                           天野康景の墓

 
   東電変電所の脇の三竹部落に通じる明神嶽麓を上り詰めること20分、山を背に鬱蒼とした樹林に囲まれたヤマトタケルを祭神とする御嶽神社に着く。
 鳥居脇に聳える杉の古木は鳥居杉と地域の人々に親しまれ、崇められて来た。
 「新相模風土記稿」によれば樹高1丈4尺余(約50m)に達し県内第一の高木という。
 社に向かう急な石段は苔むし乱れ、その脇の歩幅を無視した補助段の助けを借りてやっとの思いで社にたどり着けば、夏の残光も僅かに届くのみ古色の御堂。 平安時代造立の木造神像多く伝えられている。
 境内はビロウドの苔が敷きつめらていた。 山肌から斜めに生えるマグジイの老木が社を守るが如く不審者を見張っていた。
 社下のお神水(みたらし)は三竹山に向かう弘法大師が法力によって水路を開いたとか、日本武尊が野火を避け休息した際、村人にお礼として剣で湧かせたと伝えられている。 かながわ名水百選≠ノ選ばれた水で汲みに来る人も多いという。 この奥地に点在する人々の生きてきた歴史にロマンを感じた。
 
  鳥居杉と
御嶽神社参道


御嶽神社
 
   再び三竹道を下り、広域林道からグリーンヒルに向かう道の脇に岩原城址はある。
 現在は柵に囲われた僅かばかりの地に木標と石碑が寂しげその存在を示していた。
 小田原城主大森氏頼が隠居城として入ったというだけに、足柄平野が一望される地である。この岩原城址を下ると岩原八幡神社の境内に着く。
 源頼義が陸奥へ鎮守の途次建立したと「新相模風土記」に画かれているいう。
 その後頼朝が富士の牧狩りに赴く途中参拝し社殿を改修し祈願したと伝えられている。
 社の佇まいや掃き清めらた境内にこの社する近隣の人達の敬慕が伺われた。八幡神社に接して薬師堂があるが今回は略させて頂いた。(田中記)
 
    岩原城址

八幡神社
 
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