大雄山沿線名所巡り

その4(最終回) 塚原・和田河原・富士フィルム前・大雄山
 
     
 
 大雄山線沿線史跡巡り第4回は11月13日塚原駅より出発! 明神ヶ岳の麓に抱かれた曹洞宗「長泉院」へ。
 鬱蒼とした長い参道を往けば明神ヶ岳を源とする矢佐芝川の渓流にかかる屋根つき橋に着く。
 棟には龍が珠を抱き祀られていた。更に参道を登りつめると紅葉・竹林に囲まれた総門・四脚門に達する。総門脇には六地蔵と丈50cm程の数多くの石仏に迎えられた。
 石仏は立像・坐像あり、観音・如来・菩薩とまちまちで、それぞれに番号と寄進の名が刻まれているが、苔と風化故か判然としないものが多くこの寺の過ぎし年月を長さを物語っている。
 この古刹はこの地方を治めた大森氏頼が清泉院を建立、さらに当地の移築して長泉院と改め大森一族の菩提寺とした。
 本堂と庫裡をつなぐ高脚の廊下を潜り、墓地に向かう石畳には寺を囲む多くの樹木に包まれた冷気と、湿度が苔を見事な翠のビロードを作り上げていた。
 広い墓域の中程に大森一族の墓が幾数基も立ち並んでいた。 この寺の静寂に周辺に多くの陶芸家・漆芸家・画家が居を構えていることがうなづける。
 
     
 
矢佐芝川にかかる屋根付き橋                   本堂前より山門を見る

 
     
 
参道の石仏                        長泉院総門、四脚門 

 
   長泉院を辞し、神明神社(緑の広場)の丘を越えてF社の外塀に沿う「中沼薬師堂」へ。
 此の堂は、昨年千年祭を迎え平安時代の作と伝えられる本尊の薬師如来坐像も12年越しに開帳された。
 現在の堂は江戸期天明4(1784)年に建てられたものという。
 堂保存責任者の好意により堂に入れて戴き、これも平安期作といわれる日光菩薩立像をはじめ月光菩薩・四天王・十二神将を拝す。
 永年に亘りこの御堂を守り、御仏の修復保存を進めている人達に頭が下がる思いである。
 
     
中沼薬師堂                            薬師堂内部

 
   F社の南門を回り込み曹洞宗「極楽寺」へ。
 この寺は今川義元の血筋を引く仏満禅師が康永3(1344)年に開山、大雄山最乗寺開いた了庵慧明禅師がこの寺に泊り毎日建設地に登ったという。
 この寺には秀吉の小田原攻めに対し落城への因を作ったと言う松田尾張守を救わんと、この地の農民たちが建立したという供養塔がある。
 この極楽寺に程近い「清左衛門地獄」に歩を進める。
 その昔加藤清左衛門なる者が水源を探して居た時、馬もろともに地中深く飲み込まれ、そこから勢いよく湧水が噴出したという伝説がある。湧水は今も美しく畔に建つ厳島神社の祠を映していた。
 この湧水は平成名水百選≠ノ選ばれている。 F社はこの湧水が縁でこの地に本拠を置くことになった。
 すぐ近くには5〜6000年前の縄文時代の住居跡も発見されている。
 
 
           極楽寺本堂

              清左衛門地獄池と厳島神社→
   
   最乗寺の手前、十八丁茶屋で昼食の後、最乗寺の鐘堂奥に建つ家康の二男結城秀康の五男松平土佐守直基の墓に詣でる。
 直基は山形より姫路城主に移封直前の慶安元(1648)年江戸で病死するが、自身が同寺に深く信仰し、同時に徳川家との縁の深さからこの地に建立されたもので高さ400cm、幅135cmの安山岩の巨大な墓碑である。
 
   
             最乗寺本堂

←松平直基の墓
 
 最乗寺の参道を降り、足柄峠に向かう途中より矢倉沢の足柄古道に入ると「矢倉沢関所跡」がある。 江戸時代の箱根関所の脇関所として催けられたもので多くの関守が常駐したという。 
 
   足柄峠よりの街道に沿い「白地蔵(化粧地蔵)」が祀られている。安産と授乳に霊験があるとされ、近隣の人達の悩みや苦しみを聞き、願いが叶った人々は地蔵の顔にうどん粉を塗ると言う慣習が現在も続いているという。  
     
       矢倉沢関所跡(画像クリックで拡大)                     白地蔵  
 
 再び細い足柄古道に入り、苅野の「足柄神社」に着く。 古くから足柄明神(矢倉明神)と呼ばれ、「古事記」にも足柄の坂の明神≠ニして記されている。
 日本武尊が東征の帰路、昼食を摂ったとされ、又道に迷った時、木立から白鹿が導いたと言う。 白鹿は足柄明神の化身かと考え、この地に祀られたことに始まる。
 箒の目も美しく掃かれた境内の一隅には各所で集められた石造りの小祠が周りの木立の中にひっそりと並んでいた。
 
     
              足柄神社本殿                           石造りの小祠  
 
 この史跡巡りの最後は足柄高校近くに整地された「範茂(のりしげ)公園」である。
 鎌倉時代、時の執権北条義時より政権を取り戻すため後鳥羽上皇との間起きた承久の乱で、敗れた上皇方の参議藤原範茂が鎌倉への護送のすがら、首を討たれることになったが首と胴が離れては極楽浄土に行けないとの範茂の申し出により、この地を流れる清川(現在の貝沢川?)に沈められたという故事があり宝箘印塔が建つ。
 この哀史とはうらはらに公園では遊ぶ若者たちの嬌声がこだましていた。
 
 
          (画像クリックで拡大)

                        藤原範茂の墓
 
 
 4回に亘って巡った沿線史跡は私達にとっても初めての地もあり、まだまだ知らぬこと多い事を痛感させられると共に、守り続けてきた先人に敬意を払わずにはいられなかった。 又このシリーズの途次急逝されたグループの一人鶴井氏に謹んで弔意を表したい。(田中記)
 
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