No.72  投稿日時:2018/06/11 07:24  投稿者:石井 啓文
Eメール:isi-1410@nifty.com
№65鈴木大学戦死の再回答補足
鈴木大学については、№71で再回答を発信しましたが、繁脩を茂脩と間違えました。ご免なさい。
また、江梨の鈴木繁脩が大学頭を称したかを「私は知りません」と回答しましたが、江梨の鈴木成脩が、伊豆雲見城主の高橋高種の弟高橋氏高(郷左衛門尉)の妻が「鈴木成脩の娘」とする資料に出会いました。
詳細は拙「郷土士のブログ(その22)伊勢弥次郎(宗雲の弟)の生涯」に記しました。
№65質問者は、鈴木成脩を酒匂の鈴木大学と記されていますが、あるいは成脩と繁脩を混同されているかも知れません。勿論、投稿者ではなく利用された資料自体の混同が考えられます。
成脩は「しげのぶ」とも読みます。
参考にしていただければ嬉しいです。


No.71  投稿日時:2018/05/27 08:34  投稿者:石井 啓文
Eメール:isi-1410@nifty.com
№65質問、鈴木大学戦死の回答
№65の質問は、№66で回答しましたが、その補足説明です。
昨日、行われた史談会講演会で、江梨の鈴木茂脩が小田原籠城中に戦死したという史料はありますか? と講師の鈴木祐篤先生にお尋ねしたところ、そうした史料はないとのことでした。
江梨鈴木氏は伊豆水軍の統率者であり、小田原籠城は不自然です。ただ、水軍が敗退後、小田原に籠城した可能性も考えられ、そのまま、お答えした次第です。
また、鈴気茂脩の小田原城での戦死は、私は、インターネットで知りましたが、質問者がネット情報でのみお訊ねでしたら、この情報は疑わしいと言わざるを得ないと思います。
最近、小田原籠城中の戦死が、しばしばネット情報に見られます。ほとんどが、史料を示していませんので、そうした情報は裏付け史料を確かめられることをお勧めします。


No.70  投稿日時:2018/05/20 12:41  投稿者:佐藤文夫
Eメール:ran310@hotmail.com
会誌195号を購入希望
市立図書館、県立図書館、国会図書館にも該当巻号の蔵書がなく、閲覧できません。
澤地英氏の論著を拝見いたしたく、該当箇所のコピーでも構いません。
お分けいただく方法はないでしょうか。


No.69  投稿日時:2018/04/28 12:16  投稿者:wands
Eメール:tpoluka@hotmail.com
お伺いいたします。
小田原安斎町に料理店「右京」がありますが、江戸時代、浅倉右京宅であったと聞きましたが、鵜ノ沢作右衛門の自宅とも聞きますが、どちらでしょうか。もし浅倉右京宅であったとしたら、鵜ノ沢作右衛門宅は何処だったのですか。


No.68  投稿日時:2018/03/20 17:29  投稿者:植田士郎
Eメール:ueda168@basil.ocn.ne.jp
回答:池上の二の森微高地の位置を教えてください
中村様、回答が遅くなり申し訳ございません。
会員に色々と尋ねていましたので遅くなりました。
お尋ねの件、手書きの地図を入手しましたので、中村様のメールアドレスに送信
いたしました。  ご確認下さい。もし、未着でしたら私までご連絡下さい   植田


No.67  投稿日時:2018/03/13 12:48  投稿者:中村惠司
Eメール:nakamurasetubi@minos.ocn.ne.jp
池上の二の森微高地の位置を教えてください
 私は、小田原市内に現存する古墳や、すでに削平されて発掘調査で古墳周溝のみが見つかったという場所を見て歩いて写真撮影をし現況を記録しています。                           小田原史談第250号の中で、青木良一氏が書かれた「多古廻りの半日」の原稿の中に、「藪柑子さんが、芦子小学校の西側で、 『ここが二の森微高地』です」と説明している記事がありましたが、その場所は何処になるのでしょうか。古い明細地図を見ると、近くに「コーポ一の森」という建物が有りますが、その近くでしょうか。 相模風土記稿に池上には、「一の森、二の森、三の森という塚」が存在すると記載されていますが、場所の明示が無いため判らなかったのですが、本号の記事でその位置が判ればと思いおたずねします。確かな場所が判れば後日訪ねてみようかと思いますので、よろしくお願いいたします。


No.66  投稿日時:2018/02/04 15:01  投稿者:石井 啓文
Eメール:isi-1410@nifty.com
鈴木大学の戦死について回答
渋取口で戦死した鈴木大学は、「成脩」と言われています。
出典は「北條五代記」だそうですが、今、私の手元にはありませんので詳細は言えません。
「小田原の史跡」川東版のP。96酒匂「鈴木新左衛門屋敷跡」と、同川西版のP。64「桃源寺」に記されています。桃源寺は、鈴木大学の墓を記しています。
江梨の鈴木繁脩も小田原合戦で戦死しているようですが、戦死の詳細を私は知りません。
成脩とは別人で、繁脩が「大学」を称していたかも私は知りません。
繁脩の兄弟(弟カ)の繁氏が、小田原合戦後、船で一族家臣たち30名余で蝦夷地を目指し、難破して岩手県の葛巻町に漂着し、小屋瀬鈴木家の祖となったことは、拙著「北條五代を支えた女性たち」に記しました。


No.65  投稿日時:2018/02/04 01:30  投稿者:uNi
Eメール:235039futo@gmail.com
教えてください。
はじめまして、非会員です。教えてください。天正18年5月6日、小田原城渋取口にて鉄砲に当たり戦死した鈴木大学とは
相模国酒匂の鈴木成脩ですか?それとも江梨の鈴木繁脩ですか?それとも同一人物ですか?
ご存知の方、教えてください。よろしくお願いいたします。


No.63  投稿日時:2015/12/16 15:23  投稿者:wands
Eメール:
利用
会員ではありませんが、掲示板をよく見ています。しかしほとんど掲示板は利用されていません。もっと身近な問題で地元の歴史や昔ここはこうだった等、昭和初期の話題、住んでいた場所の変遷等、古老が少なくなった現在小田原の昔を知っている人のお話を伺えればと思う時があります。昔の話を何処に行けば聞けるのかが分かりません。昔ここはこうだった等。教えて頂きたいことがいろいろあります。いろいろ投げかけてもよろしいでしょうか。会員様のご意見を聞かせてください。


No.62  投稿日時:2015/09/20 20:19  投稿者:石井
Eメール:isi-1410@nifty.com
矢場について補追
江戸時代末期の「文久図」(小田原城絵図」)は、小田原府内に5ヶ所の「矢場」を記しています。
勿論、この「矢場」は弓道練習場です。まず、場所を示します。
①井細田口の杉浦平太夫下屋敷南側(最も細長く弓道用矢場と分かります)
②大新馬場通り北側(一ヶ所に3レーンを記しています)
③山角町天神社東側
④同天神社別当三光寺東側
⑤新蔵北側、愛宕社鳥居前
いずれも横長の土地で一目で弓道場と分かりますが、②は長方形の土地を三分割し、3本の弓場としていることが分かります。
是非、この絵図で小田原大久保家の弓道練習用の「矢場」をご確認いただければ幸いです。


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