No.40  投稿日時:2014/11/26 01:00  投稿者:伊豆川哲也
Eメール:izkw_tetsuya@yahoo.co.jp
何年の紀行文? 「禹王(うおう)をたずねて中国を旅する」
「禹王(うおう)をたずねて中国を旅する」 (前編)  (後編) の記事がありますが、年が書かれていません。これは何年に旅した紀行文なのですか?


No.39  投稿日時:2014/11/23 13:54  投稿者:wands
Eメール:tpoluka@hotmail.com
もっと投稿を。
史談会「ご意見の投稿」を楽しみにしていますが、余りにも利用が少ないですね。今年も終わろうとしていますが、今年は私が投稿するまでは7件しかありません。もっと利用したらどうかと思い投稿しました。


No.38  投稿日時:2014/11/12 15:49  投稿者:wands
Eメール:tpoluka@hotmail.com
どなたか知りませんか。
昭和の初期と思われますが、現在城内の「日本たばこ小田原営業所」がある所に、益田テニスコートがありました。それはいつ頃作られ又いつ頃専売公社倉庫になったのかどなたかご存知でしょうか。お分かりになる方がおりましたら是非教えてください。自分としては昭和20年代と思いますが。よろしくお願いいたします。


No.37  投稿日時:2014/11/01 17:27  投稿者:wands
Eメール:tpoluka@hotmail.com
さすがです。
先日護摩堂川について質問させて頂きました所、早速に教えて頂き感謝しております。これからも何かありましたらよろしくお願いいたします。


No.36  投稿日時:2014/10/30 16:21  投稿者:小田原史談会HP管理者
Eメール:ueda168@basil.ocn.ne.jp
Re 教えてください。
wands様、ご投稿有難う御座いました。 回答が遅くなりましたが、江戸時代の小田原に詳しい人に確認いたしました結果を以下に記します。
「護摩堂川はお堀から小田原郵便局本局前~平井書店、石川漆器前を通り、台宿町の西側の裏通りを北進し、大工町を東進、本源寺前、七枚橋を通り新開地の入り口で渋取り川に合流し山王川に流れこみます。
現在、護摩堂川は山王川に合流するまで全て暗渠になっており、流れを確認することは出来ません。」とのことです。


No.35  投稿日時:2014/10/27 14:06  投稿者:wands
Eメール:tpoluka@hotmail.com
教えてください。
江戸時代小田原市内に護摩堂川と言う川があり、お堀からの排水路で渋取り川と合流していたと聞きました。現在の小田原市のどの辺にあったのかお分かりになりましたら教えて頂きたい。


No.33  投稿日時:2014/04/04 17:27  投稿者:中條利昭
Eメール:nakajou@mb.scn-net.ne.jp
万助の牢抜けの疑問など
植田さんが、忙しい中、「孝貞義鑑散策」を探し出し郵送してくれた。本当に感謝しています。自分が想像していたよりもとても立派な本だった。原文があるのも嬉しい。それで、すぐ、以前から気になっていた箇所を拾い読みしたが(読み違いしているかもしれない)、前回載せた2ヶ所との関連で詳しく知りたいと思う事項があった。
①どうして、原因が書かれていると思われる2頁だけが欠落していたのか、故意か偶然か。

②犯罪者が狂人(乱心者)となった場合、幕府や小田原藩はどのような対処をしていたのか。刑罰に「旧事諮問録」を引用している(57ページ)が、「御定書百箇条」などには、「乱心者」の扱い方が出ている。小田原藩もそれに則った裁判をしたのではないか。

③まだ判決が下りていない牢抜け者を小田原藩はどういう方法で探索したのか。小田原藩の外に出た場合はどうしたのか。

④なぜ、牢抜けした者の捕縛は小田原藩の問題なのに藩で追わないで、仇討と言う方法を選択したのか。

⑤大久保忠真と水戸斉昭の関係は何時から始まったのか。二人の学文的な交流は早かったのではないのか。などなど素人的な疑問を持った。今後、時間をかけて楽しみながら調べたい。



No.32  投稿日時:2014/03/21 10:06  投稿者:中條利昭
Eメール:nakajou@mb.scn-net.ne.jp
教育者としての福田正夫
今、「教育者としての福田正夫」を調べている。詩人としては、かなり研究が進んでいるが、教師者としての彼がどのような教育観を持って指導していたかの資料がほとんどない。あるのに見つけられないのかもしれないが・・・。大正時代の教育思想は、明治時代のものとかなり違ったものであった。教師中心の授業から児童中心の個性尊重の学習が叫ばれた。各県の師範学校などでは、実践研究が推進されていた。彼が在籍した師範学校で、大正時代の教育思想に触れたのではないか。また、教師になってからも研究会などで論議され少なからず影響されたのではないか。当時の教育思想が、彼の人格形成に、またその後の詩にも影響しなかったか。
「農民の言葉」「耕人の手」に、「低能児」(差別用語であるが了解願いたい)に関係した詩がある。大正時代は、特殊教育(今の支援教育)が盛んに研究されていた。彼は、特殊教育(特に「教室の中にいる低能児」)に対してどのような考えを持って指導実践していたのだろうか。
私は、長いこと支援教育にかかわって来たので、このような関心を持って調べている次第である。


No.31  投稿日時:2014/03/12 10:21  投稿者:小田原史談会HP管理者
Eメール:ueda168@basil.ocn.ne.jp
「浅田兄弟について」の投稿について
中條様、ご投稿有難うございます。 小田原史談会HP管理者の植田と申します。
「浅田兄弟について」ご意見、ご指摘有難うございます。 永きに渡り連載してまいりましたが、あと2回で完了予定でございます。 もし、以前の会報をお読みになりたいご希望がございましたら、ご連絡ください。
但し、その場合は有料になりますのでご了解ください。


No.30  投稿日時:2014/03/11 07:55  投稿者:石井啓文
Eメール:isi-1410@nifty.com
「小田原屋について」の追記
中條様の「小田原屋について」の追記です。
小栗家の北條氏直遺児伝承は、天山湯治郷に掲示されている文章のみで、それを裏つける史料は、墓碑と小栗家の氏直位牌のみです。掲示の文章は小田原から逃げてきて2歳で還俗して独身で生涯を終えたということは、何か氏直遺児を隠さなければならなかった理由があったのではないでしょうか。こうした場合、多くは遺児を証明する遺品とともに、書面に書き残すことが考えられます。
(失われたかも知れませんが)小栗家にそうしたものが残されておらず、史談に15代小栗寅雄の話を記しましたが、それにも全く遺児伝承は触れていません。従って、これを検証する糸口が全く掴めませんでした。
今後、こうした史料の発見を期待しています。
中條様には、「四季漬物塩嘉言」の情報、ありがとうございました。紙面をお借りして感謝申し上げます。


全53件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。     1 2 3 4 5 6 ページ

このページのトップへ