平成26年

平成26年10月27日   「松代方面史跡めぐり」  (緑色字句には対応した関連写真を載せています)

 五時起床、今朝は曇り。あまり好天は望めそうもない。最近腰を痛め杖を頼りの歩行となり、今日の行程を無事終わらせるように祈りつつ小田原駅西口へ と急ぐ。
 今日はバス近くで受け付けを済ませる。すると随分空席があり、聞くと急に大型が配車されたとか、友人が満員で参加できなかった事が大変残念だ
 私は最近では久しぶりの参加だったので、車内に石井艶子さん、田口鏡子さんの馴染みのお顔があってホッとする。今回は走行距離が長い為運転手二人とガイドさんが添乗して定刻出発、 一人の遅刻もなく順調な滑り出し。車内はお陰様でゆったりとして、一人でワンボックス占領という贅沢な旅となった。
 車は255号線から大井松田インターへ。晴れていれば美しい富士山を拝めるのに今朝は雲の中でとても残念。
 バスは足柄サービスエリアを経て御殿場方面へと向かう。そして関越自動車道に 入ったが曇りの為か山中湖も良く見えず、甲府、八ヶ岳PA、諏訪を経て長野自動車道に入り松本市、梓川SAから千曲川を渡りやっと松代に入る。
 道中まだ紅葉には早く、それでも沿道の並木や山々の色づきを楽しみながらたいした渋滞にも遭わず順調に定刻より早めに着いた。お蔭で会場で暫く待たされての昼食となり、 釜飯のご飯を美味しくいただきいよいよ見学に向かう。


 昼食後現地のボランティアガイドさんにご挨拶して真田宝物館へと向かう。時間を限られているせいか割に簡単な説明であまりじっくり見ることなく 進む。
 加賀百万石の前田家でさえ維新の時にかなり売ってしまったので宝物はたいして無いとの事だが、この真田家はあまり売らず大量に残されているのは全国でも珍しいとガイドさんの 誇らし気な説明であった。
 昭和四十一年に真田家から町に一括寄贈され、その数万点に及ぶ歴史資料を昭和五十一年に鉄筋コンクリートの宝物館を建てて保存し中々良く整備されていた。 宝物の中には「青江の大太刀(国重文)」をはじめ武具甲冑・書画・茶器・古文書・等貴重な品々が納めらていて石田三成からの加勢要請の直筆の手紙も残っているとか。 しかし前田家より数が多い、と言われても百万石大名と十万石大名ではその家格の違いで残っている品物のレベルは数段の差があるのではなかろうか、と思われる。

  
                    松代城址                                真田宝物館




 宝物館より十b程南に歩くと黒塗りの冠木門が見え、四方を土塀に囲まれた大名邸に着く。
 文久二年(一八六二)に九代藩主幸教が参勤交代の緩和で帰国を許された義母お貞の方の為に建造したもの。敷地二千六百坪、建物面積四百五十坪、部屋数五十三室という広大さは流石大名邸である。
 幕末の日本の面影を良く残していて、全体に簡素な中に風格のある優雅さをたたえ、桂離宮のそれに似た感じがした。庭は回遊庭園で四季折々の美しさを味わえる。
 京都の公家、竹屋中納言の庭を模したといわれ、まさに紅葉の真っただ中で遠くの山を借景に庭内の松、もみじ、雪柳と各々競いあって織りなす情景は 見事だった。
  
                真田大名邸                                  庭園の紅葉

 真田邸の西向いにある松代藩文武学校(国史跡)は水戸藩の弘道館を手本に八代藩主真田幸貫が佐久間象山等の意見を採り入れて建造し安政二年に開校された。 藩士子弟の教育に力を入れ、黒門から中に入ると柔術・剣術・西洋医学・砲術・文学所・弓術所槍術所と 今でいえば総合大学の感があり、この中から幾多の優れた人物が輩出された事であろう。矢張り幼児教育が如何に人間形成にとって大切であるか、昔の日本人が重視したあらわれだと思う。

  
                   槍術所                                  弓術所


 松代城は平成の大普請で櫓門、木橋、土塁、堀等が江戸時代後期の姿に近い状態で復元された。太鼓門の冠木は十二bの欅を使用し、 屋根は厚さ十二_のサワラの板を重ねた「栩(とち)葺」である。出入口は枡形と言われ敵が真直ぐに入れないように鍵型通路になっている。
この頃になると大分時雨て来て雨がパラつき出し、皆足早にバスに戻ったが戻る途中廻り道をしてしまい、疲れた身には一寸辛かった。
 真田氏は戦国時代を祖父幸隆、父昌幸に次ぐ信之の時、徳川方について家を守り、父昌幸と弟幸村は袖を分かって戦うという戦国時代武家独特の生き方をしている。

 バスは松代大本営跡に着く。象山口より地下壕に入ると急な下り坂となり、皆転ばないようにとそろそろ進む。
 大東亜戦争末期、海に遠く岩盤で十`爆弾にも耐えられ山中の事で爆撃もしにくい処として選ばれたこの地に陛下の御座所、軍の大本営を移す為に昭和十九年十一月から 九ヶ月程の期間に掘られたらしい。当時国民学校の生徒、周囲の老人、女性、それに朝鮮人等多数の人達が使役され大変な重労働だったようだ。
 入ってみると唯掘られただけのトンネルが長く時折横への掘り込みがあり、往時の面影等何も無く、何とも言いようのない空しさを覚えた。


                                象山地下壕 →
 
                                   地下壕入り口


 長い走行距離の一日は終わり一同帰りのバスはしばし休憩タイムとなり予定通りの午後八時半頃小田原着となった。一人の事故もなく皆様お元気で帰着出来て、 本当に喜ばしい事だったが車中の往き帰りにガイドさんが信州の松茸は素晴らしいと盛んに煽ったのにその一片にも逢わなかったのが残念至極。  

 私もどうやら全行程を歩き抜けた事に感謝しつつ終了。皆様ありがとうございました。(文:河合 写真:植田)


平成26年3月18日   「早春の房総史跡めぐり」

 午前中は曇りで、午後は時々雨という予報の中、バスにのる。都内に入ってからは渋滞に巻込まれて、なかなか千葉にはいれない状態。やっと千葉県内に入っても進まない。 房総半島の季節感のようなものを見つけたいと期待したが、高速道路の高い塀に遮られ、残念ながら外の景色もほとんど見えない。
 参加者の自己紹介は、外の景色に気をそらせることなく聞けた。自己紹介の終りを飾ったのは、田中さんの歌舞伎の一節。朗々と台詞回しよく聞かせて頂く。 この先の木更津とゆかりのある「与話情浮名横櫛」切られ与三。
そうこうしている内に11時少し前に「加曾利貝塚」に到着。バスを降りたところは、立派な雑木林の一かくで、今は失われつつある、 いわゆる「武蔵野の雑木林」、主に櫟の林。実のどんぐりは、縄文人の食糧だったのかも。
  
            加曾利貝塚記念碑                            加曾利貝塚南展示室

 直径150mと170mの円形の貝塚が8の字状になって残っている。 貝塚断層観覧施設がある。環状の途中を幅2mくらい通路分を掘り、断面が崩れないように処理されており、1m〜2mも堆積した貝類、 動物の骨も交じっているのが観られる。貝塚は、食用にした貝の殻の捨て場。どうしてこのように、日本一、或は世界最大規模の貝塚となったのか。探ってみると……。 まず、東京湾で豊富に貝が取れた。それを干貝に加工した。シーズンオフに食すため。或は物々交換の貴重な資源となっていった。 例えば、獲物を捕るための矢じりや刃物の材料となる黒曜石は地元で手に入らない物で、干貝と交換したのだろう。

    
               貝塚の断面                            貝塚の断面その2

 ところで、相模の海の近くに住む私たちには、幸いにも、大規模な埋め立てなど目にすることもなく、昔からの変わらない美しい海の景色をみてきた。 が、東京湾の地図を見て愕然とした。  東京湾は、ごみの埋め立てから始まって、戦後じわじわと海が狭くなってしまった。東京、川崎、横浜、千葉、…主に工業用地として埋め立てられてきた。 谷津干潟など、自然を取り戻したところもあるが、縄文時代の面影は失われ、貝塚だけが残っている。
 加曾利の縄文人は、貝の実を干した名産品をつくった。今、海を埋め立てたコンビナートで何を作っているのだろうか。縄文時代からの長いながい歴史からみれば、 変化するのも当然だ…と笑われるであろうが、文明の断層におどろかされた。
 君津で昼食を済ませ「木更津郷土博物館金の鈴」を経て帰路につく。千葉から東京湾岸に近づいた時はすでに暗くなり窓外の夜景は、朝来た時とは一変、 華やかなイルミネーションに彩られショーを見るようだ。思はず息をのむ。「東京湾アクアライン」が強風のため通行不可になったのも、忘れて。(文:田口 写真:植田)
                                                    木更津郷土博物館金の鈴





平成26年1月21日   「深大寺・江戸東京たてもの園初詣」

 年の当史談会の初詣は調布「深大寺」と小金井「江戸東京たてもの園」、1月21日は温暖・快晴に恵まれました。 昨秋の「福井史跡」が参加者少なく中止になっただけに39名の参加で車内は殊のほか華やいでいました。
 小田厚・東名・一般道路も渋滞なく予定を早って到着。深大寺をゆっくり参詣出来ました。この深大寺は湧水の寺として知られていますが、縁結びの寺でもあり初詣の参詣客にまじり 若いカップルの籤を求める微笑ましい姿を散見しました。

  
                深大寺本堂                              深大寺山門

 天平時代の創建の古刹ですが江戸時代の二度にわたる火災で、現在の本堂は大正初期に再建されたものとか、本堂左手のガラス張りの覆堂に鎮座する 銅造釈迦如来は珍しく倚像で、白鳳時代のものらしく、美しい優美なお姿。境内には紅梅が小さな莟をつけていました。

  
          釈迦如来像                             参道のみやげ物店

 門前は清らかな湧水で製した「名代深大寺そば」茶屋の他、土産物店が軒を連ねていました。そぞろ歩くうちに甘酒の旗に誘われて暖簾をくぐりました。
 昼食は当然「深大寺そば」。早々に第二の目的地「江戸東京たてもの園」へ。
 走ること30分、武蔵野の面影残す小金井公園に到着。24万坪という広大というより壮大な地に欅・松・桜・梅等々の大木がのびやかに枝を伸ばしていました。 その一角に江戸東京博物館の開園に合わせて武蔵野郷土園を拡充された「江戸東京たてもの園」があります。
 文化的価値が高い江戸時代から昭和初期の30棟の建造物が全国各地より移築保存されていました。この園の入口にあたる紀元2600年記念式典をした旧光華殿前 で集合写真を撮ったのち、3班に分かれボランティアガイドに導かれ見学しました。


                              旧光華殿をバックに

 身を置いた昭和の人達。店先に並べられた品々にそれぞれに郷愁を感じました。とりわけ銭湯は人気が高く 番台や富士の絵が遠い昔をいざなってくれました。
 和風の車寄せを持つ高橋是清邸、邸内部は政界の重鎮にうさわしい凝った内装、ゆらぐガラス間近らは周りの風景が歪んでみえました。 是清翁が2.26事件で凶弾に倒れた2階の間も残されていました。




 ← 高橋是清邸



 
            北千住にあった銭湯                               男湯

 三井八郎右衛門邸は京都を経て西麻布から移築された蔵を持つ和風で、贅の中にも重厚さに圧倒されました。1時間半程の行程を懇切丁寧に説明して頂いたガイド諸氏に感謝、 15時半過ぎ行く時間を惜しみつつ小金井公園より環八・東名を継いで帰路に着きました。(文:田中、写真:植田)


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