小田原曽我梅林
平成28年

平成28年11月22日  晩秋紀行 「甲斐路史跡と美術館」

 夜来の雨に今回の旅は…と半ばあきらめ境地も小田原駅に着く頃には、高く澄みきった秋の空が広がり、昨年度は諸々の事情から中止せざるを得なかった気分を洗い流してくれた。 その故ではあるまいが集合時間には参加者33名(1名病欠)は出揃っていた。 西口で参加される91歳になられるというN先生に久しぶりにお会いし、「若くなったね」と声をかけられ驚いた。

 予定通り8時に出発したが、圏央道を往く予定が事故のため渋滞しているとの情報で、急遽小田原厚木道路を経て御殿場迄東名を走り、東富士五湖道路に変更となる。 籠坂トンネルを抜けると周りはもう晩秋の気配、紅葉が進む山々は渋い錦を織りなし、バスの窓から林越しに見え隠れする富士は頂を真っ白に化粧がすすみ、霊峰にふさわしい気品を讃えていた。

 車内では先導役の飯田理事の克明な説明と共に平倉会長の挨拶を聞くうちに、早くも谷村SAに到着、休憩ののち一路中央高速に入り、今回の歴史説明役石井啓文氏の第一回目のレクチャーを実施、山梨県は観光に対し熱意のある県で常に新しい碑や説明がなされているという。 更に石井氏による武田氏と北条氏の関係について克明な説明を聞くうちに早くも韮崎の新府城址の到着。 県教育委員会の閏間氏の出迎えを受け、早速に「新府城址」について概要説明を受ける。


新府城跡

 天正三年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は武田軍団が誇る山県昌景・馬場信春・内藤昌秀の武将を失い、家訓の「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動林」に従い躑榴ケ崎(つつじがさき)だけでは防ぎきれないと、突貫工事で新府城を築いたが、勝頼としては新しい武田氏を新府として構築するという希望に満ちていたと想像を膨らませる。 紅葉する山林と遠くに眺望する八ヶ岳が素晴らしいパノラマを成していた。  城といえども当時の城はまだ石垣はなく自然を生かした壕が巡らされ起伏に富み、更に上部には土塁を盛り上げ城郭は、本丸に達するには周囲を廻る構造になっており、当時は現在よりも樹木は低かったろうから、下から攻めるには想像以上に困難を要したに違いなく所々にその名残を多く残していた。 落葉の中を歩く我々年配層には少々辛くはあれど、落葉の絨毯を引き詰めた道は懐かしい足底に心良い感触、どんぐりなどを拾った遠い思い出を蘇らせてくれた。 現在もよく整備されており所々に伐採した樹木が積み上げられていた。 しかしこの城も連合軍の前に勝頼は僅か2ヶ月で放棄したという。

 再びバスに乗り40分ほど行けば武田八幡宮に着く。 この宮は日本武尊の御子、武田王がこの地に封ぜられ、亡くなった際に土地の人によって居館跡に祠が建てられたのが起源という。土地の人達の氏神として深く崇拝されたこの宮は素朴な神社で、勝頼夫人の桂林院(北条氏康娘)の手による戦勝を祈願する願文が残され衆目を集め、碑や軸として公開されていた。 本殿は檜皮葺、で信玄の造営と伝えられ棟の沓形は珍しく鬼面が使われていた。


武田勝頼公廟

 韮崎を後にして甲府駅前へ、駅前は工事中で信玄の雄大な床几に掛けた銅像が見られなった。 「小作」でグツグツ煮える甲府名物ほうとう≠フ昼食に舌つづみを打つや間なくバスは次の工程「山梨県立美術館」に向かう。 この美術館は各県がこぞって美術館を施設した先駆けになったもので、ミレーの「種まく人」「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」他多くのミレー作品やバルビゾン派の画家作品が多い、特に「種まく人」は昭和53年開館当時は3億円で購入したと話題になった。 しかし私は以前から「ポリーヌ・V・オノの肖像」(23歳で長患いの末子供にもッ恵まれなかった最初のミレー夫人)が好きで館内最初のブースに掲げられていたのは惜しいきがした。 彼女の透明な健気なまなざしはいつも私の胸をうつ。 館内は県ゆかりの画家の近藤浩一路・望月春江や川崎小虎の絵画、版画家の萩原英雄の作品も数多く展示されていた。 館外を出るとレンガ色の館と眞黄色の銀杏との美しい色彩調和はこの美術館の何よりの作品ともいえる光景に思えた。


山梨美術館

 15時美術館を後にし、織田・徳川連合軍に追われ、天目山で僅かな主従と共に自刃し勝頼主従の最後となった田野に向かう。 途中再び石井啓文氏のレクチャーを聞きつつ「景徳院」到着。 同寺は徳川家康が小幡勘兵衛に命じた建立されたが、当時「田野寺」と称したという。 天保年間、弘化3年(1845)、明治27年(1894)の度重なる大火で諸堂は消失、僅かに火災を免れた山門が当時の姿をのこしているという。 朽ちた堂の裏に勝頼を中心に右に桂林院(享年19歳)、左に信勝(享年16歳)の墓碑が建つが正面は何故か欠け落ちて武田氏の末路を助長するかの様に感ぜずにはいられなかった。 ただ焼け残った山門と紅葉した楓、そして遠望する山並みが美しく夕陽に映えていた。

景徳院山門



17名の殉職者

 16時半、晩秋の夕暮れは速く往路と異なり圏央道を疾走、談合坂で小休憩では、多くの人が旅の楽しみでもある土産を買いこみ、東名・小田原厚木道路にて19時、予定通り小田原西口に無事帰着した。 乗務員もさりながら先導役の飯田理事の緻密な時間配分に予定通り消化出来、その御苦労に深謝!。                    (平成28年11月田中記、写真植田))


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